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第3話 私を追放する家族

last update publish date: 2026-10-10 13:44:46

第3話 私を追放する家族

 セレス伯爵家の屋敷へ戻った時には、すでに陽が傾き始めていた。

 王都の西側に建つ屋敷は、子供の頃から何度も見てきたはずなのに、今日はまるで他人の家のように見えた。石造りの門柱も、冬になると葉を落とす並木も、玄関前に置かれた古い狼像も何一つ変わっていない。それなのに馬車を降りた瞬間、ミレイアは自分だけがそこから切り離されたような感覚を覚えた。

 神殿での出来事が、すでに屋敷へ伝わっていることは分かっていた。

 玄関脇に控えていた使用人たちが、いつもより深く頭を下げたまま顔を上げない。視線を向けられないことが、かえって何を考えているのかを雄弁に物語っていた。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

 老執事のデリックだけは、いつもと変わらない声で迎えた。

「ただいま戻りました」

「旦那様が書斎でお待ちです」

 やはり、とミレイアは思った。

「母も?」

「奥様もご一緒です」

「そうですか」

 デリックは一瞬だけ何か言いたそうにしたが、結局は黙って道を譲った。

 その沈黙がありがたかった。

 今、「大丈夫ですか」と聞かれても、何と答えればよいのか分からなかったからだ。

 大丈夫ではない。

 けれど、泣き崩れるほどでもない。

 怒っている。

 傷ついている。

 そのくせ、どこか妙に冷静でもある。

 自分の感情なのに、自分でもまだ整理できなかった。

 廊下を歩きながら、ミレイアは無意識に左手首へ触れた。

 銀色の番紋は消えていない。

 神殿で破棄契約が凍結された以上、当然だった。

 ただ、以前ならその紋様を見るだけで胸が温かくなったのに、今は古い傷痕を眺めているような気分になる。

 書斎の前に着くと、デリックが扉を叩いた。

「ミレイアお嬢様がお戻りです」

「入れ」

 父の声は硬かった。

 扉が開く。

 中には父エドガー・セレス伯爵と、母クラウディアがいた。

 父は執務机の前に立ち、母は長椅子に腰掛けていた。いつもなら客人を迎える時に出す銀の茶器がテーブルに置かれているが、誰も手をつけた形跡はない。

 ミレイアが部屋へ入るなり、父は挨拶もなく言った。

「何をしてきた」

 予想していた言葉だった。

 それでも、胸の奥が少しだけ冷えた。

「神殿でのことでしたら、すでにお聞きになっているのでは?」

「聞いたから尋ねている。なぜあんな場でローデン家と神殿に恥をかかせた」

 ミレイアは一瞬、言葉を失った。

 自分が恥をかかされたことについては、何も言わないのか。

 けれど、それを口にする前に、母が困ったように眉を寄せた。

「ミレイア。あなたもつらかったのでしょうけれど、もう少し考えて行動してほしかったわ。人前で契約に不正があるなどと言えば、どれほど大きな騒ぎになるか分かるでしょう?」

「実際に、おかしな点がありました」

「だからといって、あの場で言う必要はなかったでしょう」

「では、どこで言えばよかったのですか?」

 母は黙った。

 父が机を叩いた。

「口答えをするな」

 乾いた音が部屋に響く。

 幼い頃なら、それだけでミレイアは反射的に謝っていた。

 だが今日は、不思議と頭を下げる気にはなれなかった。

「申し訳ありません。でも、分からないのです」

「何がだ」

「私が何を間違えたのかです」

 父の目が険しくなる。

「カイラス様から婚約破棄を告げられました。ヴィオラ様との婚約まで、その場で発表されました。しかも破棄契約には不自然な点があり、カイラス様本人も手続きの凍結を求めました。それでも、黙って受け入れるべきだったのですか?」

「そうだ」

 あまりに迷いのない返答だったため、ミレイアは逆に驚いた。

 父は深く息を吐き、面倒な子供へ説明するような口調で続けた。

「お前が正しいかどうかの話ではない。相手はローデン侯爵家だ。そしてヴィオラ嬢の実家はアルメネス大公家。神殿まで関わっている。そんな相手に、伯爵家の娘が公衆の面前で噛みついて、何の得がある」

「得の話なのですか?」

「貴族の世界では、ほとんどのことがそうだ」

「では私が黙って捨てられれば、セレス家には得があるのですね」

 父の表情が僅かに動いた。

 その沈黙で、答えは十分だった。

 ミレイアはゆっくりと母を見る。

 母は目を逸らした。

 胸の奥に、小さな亀裂が入る。

「知っていたのですか?」

 母の肩がわずかに揺れる。

「何を?」

「今日、カイラス様が私との婚約を破棄することを」

「……」

「お母様」

「全部ではないわ」

 母はようやく口を開いた。

「ローデン家から、婚約について再検討したいという話が来ていたことは知っていました。でも、正式に破棄すると決まったとは聞いていなかったのよ」

「いつからですか?」

「ミレイア」

「いつから知っていたのですか?」

 母は困ったように唇を結んだ。

「二週間ほど前よ」

 二週間。

 ミレイアは、その数字を頭の中で繰り返した。

 二週間前、母は式典用のドレスの仮縫いに付き添ってくれた。

 色は白銀がいいか、淡い青がいいか。

 髪は上げたほうが首元がきれいに見える。

 そんな話をしながら、母は針子へ細かな注文までしていた。

「二週間前から知っていたのに、何も言わなかったのですか」

「決まった話ではなかったもの」

「でも、可能性はあった」

「あなたが知ったところで、何ができたの?」

 母の声には、責めるというより疲れがあった。

「先に話せば、あなたはきっと取り乱したでしょうし、カイラス様へ確認しに行ったかもしれない。そうなれば話が余計にこじれると思ったのよ。私だって、できれば婚約破棄などしてほしくなかったわ。でも、相手の家がそう判断したのなら、私たちにはどうしようもないこともあるの」

 それは、母なりの理屈なのだろう。

 悪意から隠していたわけではない。

 娘を傷つけたいわけでもなかったはずだ。

 けれどその善意が、ミレイアにはひどく残酷だった。

「私が恥をかくことより、話がこじれないことのほうが大事だったのですね」

「そんな言い方をしないで」

「でも、そうでしょう?」

「親には親の立場があるのよ」

「娘にも娘の立場があります」

 母が言葉に詰まる。

 父は苛立ったように鼻を鳴らした。

「もういい。今さら感情論を続けても仕方がない」

「私にとっては今さらではありません」

「だから、お前は子供なのだ」

 父は机の上に置かれていた一通の封書を取った。

「今日の騒ぎのせいで、ローデン侯爵家から抗議が来ている」

「もう?」

「神殿を出る前に使者を寄越したらしい。お前が契約の不正を公言したことで、ローデン家があたかも偽造に関わったかのような噂が広がり始めているそうだ」

「私はローデン家が偽造したとは言っていません」

「世間はそんな細かい区別をしない」

「だから、私が黙るべきだと?」

「少なくとも、これ以上騒ぐな」

 父は封書を机へ戻した。

「契約の調査は神殿へ任せろ。結果がどうであれ、お前とカイラス殿の婚約はもう終わったと考えろ。破棄が正式に成立すれば、補償金を受け取り、この屋敷で静かに暮らせばいい」

「私は補償金を受け取らないと、本人にも言いました」

 父の顔色が変わった。

「何だと?」

「必要ありません」

「勝手なことをするな!」

 今度こそ、父の怒声が書斎を揺らした。

「お前は自分が何を捨てたのか分かっているのか。棄て番となった娘に、今後まともな縁談など来ると思うな。ローデン家が提示している補償金があれば、お前が一生困らず暮らせるだけでなく、家の負債の一部も――」

 父は、そこで口を止めた。

 だが遅かった。

 ミレイアは父を見た。

「家の負債?」

「……」

「私の補償金を、家の借金に使うつもりだったのですか」

「家族なら当然だろう」

 父は開き直るように言った。

「この家がお前を育てるために、どれだけ金をかけたと思っている。しかもお前は獣化能力を持たず、政略婚で家へ利益をもたらすこともできなくなった。ならばせめて、得られる補償は家のために使うべきだ」

 一瞬、何も聞こえなくなった。

 怒りより先に、妙な納得があった。

 ああ、そうだったのか、と。

 今まで何となく感じていたものに、初めて形が与えられた。

 父にとって、自分はずっと「役に立つかどうか」で測られていた。

 カイラスと番になった時は価値があった。

 獣化できないと分かった時は価値が下がった。

 婚約を破棄されれば、さらに下がる。

 そして最後に残るのが補償金。

 それすら拒否したから、父は怒っている。

「お父様」

「何だ」

「私のことを、娘だと思ってくださったことはありますか」

 父の顔に、明らかな不快感が浮かんだ。

「馬鹿なことを言うな。娘だからここまで面倒を見てきたのだ」

「そうですか」

 それ以上、聞く必要はなかった。

 母が立ち上がる。

「ミレイア、あなたも疲れているのよ。今日は部屋へ戻って休みなさい。明日になれば、もう少し落ち着いて話せるから」

「明日になったら、私が折れるとお思いですか?」

「そういうことではなくて」

「お母様は、いつもそうですね」

 母の目が揺れる。

 言ってはいけない気もした。

 それでも、今日はもう飲み込めなかった。

「私が傷ついていても、怒っていても、少し時間を置けば黙ると思っていらっしゃる。私も、それでいいと思っていました。家族が困らないなら、私が我慢すれば済むと」

「ミレイア」

「でも、今日は無理です」

 母は何か言おうとして、結局うつむいた。

 父が深く息を吐く。

「ならば、好きにしろ」

 声が、急に冷たくなった。

 ミレイアは顔を上げた。

「どういう意味ですか?」

「この家の方針に従えないなら、ここにいる必要はないと言っている」

 母が驚いて父を見る。

「あなた、それは――」

「黙っていろ」

「でも、この子は今日あんなことがあったばかりなのよ」

「だからこそだ。今ここで甘やかせば、さらに勝手なことをする。神殿で外国の王にまで目をつけられた。これ以上ローデン家や大公家を敵に回されたら、セレス家まで巻き添えになる」

 ミレイアは父を見つめた。

「私に、家を出ろと?」

「そうだ」

「今日?」

「できれば明朝までに」

「……」

 さすがに、すぐには言葉が出なかった。

 予想していなかった。

 叱責はされると思っていた。

 しばらく外出を禁じられるかもしれないとも。

 けれど、まさかその日のうちに家を追われるとは思わなかった。

「あなた!」

 母が立ち上がる。

「いくら何でも、それはあんまりです。まだ正式に婚約破棄すら成立していないのよ。この子を外へ出したら、世間に何と言われるか――」

「世間のために言っているんじゃない!」

「では、何のため?」

「家のためだ!」

 父の怒声に、母が黙る。

 そのやり取りを見ながら、ミレイアは妙に冷静だった。

 母が止めている。

 けれどその理由の最初に出てきたのは、「世間に何と言われるか」だった。

 それで十分だった。

「分かりました」

 ミレイアは言った。

 二人が同時にこちらを見る。

「明朝までに出ます」

「ミレイア」

 母の声が震える。

「意地を張らないで。お父様も今は怒っているだけよ」

「違う」

 父は即座に否定した。

「決定だ」

 母が青ざめる。

 ミレイアは、その顔を見て少しだけ胸が痛んだ。

 母を嫌いになったわけではない。

 父だって、幼い頃には肩車をしてくれたことがある。

 家族というものは、きれいに好きか嫌いかだけでは分けられない。

 だから面倒なのだ。

 傷つけられたからといって、過去の全部まで憎めるわけではない。

「お母様」

「……何?」

「今まで育ててくださったことには感謝しています」

 母の目に涙が滲んだ。

「そんな、別れの挨拶みたいな言い方をしないで」

「まだ出ていません」

 自分でも少し可笑しくなって、ミレイアはほんの僅かに笑った。

「でも、明日には出ます」

 母は泣きそうな顔のまま、何も言えなかった。

 ミレイアは父へ向き直り、頭を下げた。

「長い間、お世話になりました」

「……好きにしろ」

 父は顔を背けた。

 それが本当に最後の言葉になるかもしれないと思うと、胸の奥が痛んだ。

 それでもミレイアは、もう何も言わなかった。

 書斎を出る。

 扉が閉まった瞬間、廊下の空気がひどく冷たく感じた。

 今まで自分の家だった場所なのに、もう帰る場所ではない。

 そう思った途端、足元が少し揺らいだ。

「姉さん」

 声がした。

 廊下の柱の陰から、一人の少年が出てくる。

 弟のルイスだった。

 十六歳になったばかりで、父に似た濃茶の髪をしている。まだ完全な獣化はできないが、家族の中では最も早く狼の耳と爪を発現させたため、父から期待されている。

「聞いていたの?」

「全部じゃない。でも、最後のほうは」

 ルイスは気まずそうに唇を噛んだ。

「本当に出ていくの?」

「そうみたい」

「そうみたい、って……」

「私もさっき決まったから、まだ実感がないの」

 ルイスは苛立ったように髪を掻いた。

「父上は馬鹿だ」

「ルイス」

「だってそうだろ。姉さんが神殿で何をしたか、俺も聞いたよ。契約書がおかしいって見つけただけじゃないか。何でそれで追い出されるんだ」

「言葉を選びなさい。父上は父上なりに家を守ろうとしているのよ」

「姉さんまで父上を庇うなよ」

 まっすぐ言われて、ミレイアは少し困った。

「庇っているわけじゃないわ」

「じゃあ怒れよ」

「怒ってるわよ」

「全然見えない」

「私だって、怒るときに家具を蹴ったりはしないの」

「俺だって蹴らないよ」

「去年、廊下の花瓶台を蹴って壊したでしょう」

「あれは足を引っかけただけだ」

「三回も?」

「……そこは今関係ないだろ」

 あまりにもいつもの弟らしい返しで、ミレイアは思わず笑ってしまった。

 今日一日で、二度目の自然な笑いだった。

 ルイスはほっとしたような、逆に泣きそうなような顔をした。

「姉さん」

「何?」

「これ、持っていって」

 彼は上着の内側から、小さな革袋を取り出した。

 ミレイアが受け取ると、ずしりと重い。

 中を覗けば、銀貨と金貨が入っている。

「こんなお金、どうしたの?」

「俺の小遣いと、剣術大会の賞金。あと、去年叔父上にもらったやつ」

「駄目よ」

 ミレイアはすぐに押し返した。

「あなたのお金でしょう」

「姉さんはこれから住む場所も決まってないんだろ」

「だからといって、弟のお金をもらうわけにはいかないわ」

「こういう時くらい、姉らしくないことしてよ」

「どういう意味?」

「いつも姉さんは、全部自分で何とかしようとするだろ」

 ルイスは袋を押し戻してきた。

「俺、知ってるから。父上に帳簿の計算を押しつけられても、母上に夜会の招待状を全部確認させられても、カイラス様のために北境の資料を調べてても、姉さんは文句言わなかった。なのにみんな、姉さんは能力がないから何もしてないみたいに言う」

 ミレイアは返す言葉を失った。

 弟が、そんなふうに見ていたとは知らなかった。

「だから、これくらいさせて」

「でも――」

「返したいなら、いつか返せばいい」

 ルイスは少しだけ笑った。

「姉さん、細かいだろ。利息まで付けて返してくれそうだし」

「失礼ね」

「褒めてる」

「絶対に褒めてないでしょう」

「じゃあ半分褒めてる」

「残り半分は?」

「面倒くさい」

「あなたね」

 二人で小さく笑った。

 それからルイスは急に真面目な顔になった。

「本当に帰ってこないの?」

 ミレイアは答えるまで少し時間がかかった。

「分からない」

「帰ってきてもいいからな」

「あなたの家ではないでしょう」

「いつか俺が継ぐ」

 思わず目を見開く。

 ルイスは耳を赤くした。

「すぐじゃないけど。俺が継いだら、姉さんが戻ってきても誰にも文句言わせない」

「それ、父上には絶対に言わないほうがいいわよ」

「分かってる」

 ミレイアは革袋を握った。

 重さが、さっきより違って感じられた。

 金貨の重さではない。

 弟が、自分を家族だと思ってくれている重さだった。

「ありがとう」

 今度は素直に言えた。

「うん」

「必ず返すわ」

「そこは別にいいって」

「利息もつける」

「やっぱり姉さん面倒くさいな」

「聞こえてるわよ」

 ルイスは笑った。

 けれど目の奥には、まだ寂しさが残っていた。

 ミレイアはその頭へ手を伸ばしかけ、途中でやめた。もう子供扱いを嫌がる年頃だと思ったからだ。

 するとルイスのほうから、一歩近づいてきた。

「最後くらい、いいよ」

「最後じゃないわよ」

「じゃあ、しばらく会えないから」

 ミレイアは弟の頭を撫でた。

 子供の頃よりずっと高くなっている。

 昔は自分の腰くらいしかなかったのに。

「元気でね」

「姉さんも」

「父上に反抗しすぎないように」

「今それ言う?」

「大事なことよ」

「姉さん、本当にそういうところだよ」

 呆れた声に、また少し笑った。

 その夜、ミレイアは自室で荷造りをした。

 持っていけるものは多くない。

 衣類。

 身分証。

 数冊の本。

 母から幼い頃にもらった小さな裁縫箱。

 そして、自分がこれまで写してきた契約法や領地法のノート。

 宝石類はほとんど置いていくことにした。

 家から与えられたものまで持ち出せば、後で父に何を言われるか分からない。誕生日にもらった首飾りだけは手に取ったが、それがカイラスから贈られたものだと気づき、静かに箱へ戻した。

 まだ捨てる勇気はなかった。

 けれど持っていく気にもなれなかった。

 窓の外では、夜の王都に灯りがともり始めている。

 明日から、どこへ行けばよいのだろう。

 親戚を頼るか。

 小さな宿を借りるか。

 仕事を探すか。

 伯爵令嬢として育った自分に、どんな仕事ができるのかも分からない。

 考えれば考えるほど、不安が押し寄せる。

 ベッドへ腰を下ろしたところで、ようやく涙がこぼれた。

 神殿では泣かなかった。

 父の前でも泣かなかった。

 けれど、自分しかいない部屋では、もう我慢する理由がなかった。

「……馬鹿みたい」

 誰に言ったのか、自分でも分からない。

 カイラスに。

 父に。

 それとも、ずっと我慢していればいつか報われると思っていた自分に。

 涙はなかなか止まらなかった。

 それでも声を上げて泣くことはしなかった。

 泣きながら、明日持っていく服の枚数を数えている自分が、少しだけ可笑しかった。

 人間というものは不思議だ。

 人生が崩れても、靴下を何足持っていくかは考えなければならない。

 翌朝。

 ミレイアは日が昇る前に起きた。

 荷物は小さな旅行鞄二つだけだった。

 朝食の席へ行く気にはなれず、使用人へ簡単な礼を言いながら玄関へ向かう。

 母は来なかった。

 父も。

 それでよかったと思う。

 顔を見れば、余計なことを言ってしまうかもしれない。

 玄関にはデリックと、数人の使用人が待っていた。

「お嬢様」

 老執事は深く頭を下げた。

「どうか、お体を大切に」

「デリックも」

「長くお仕えできたことを、私は誇りに思っております」

 その言葉に、また涙が出そうになった。

「ありがとう」

 ミレイアは頭を下げた。

 貴族の娘が使用人へ深く頭を下げるのは、あまり行儀のよいことではない。

 けれど今は、どうでもよかった。

 玄関の扉が開く。

 冷たい朝の空気が流れ込んでくる。

 昨日までなら、ここから馬車に乗って出掛けても、夕方には戻ってくると思っていた。

 今日は違う。

 帰る予定はない。

 ミレイアは敷居をまたいだ。

 その瞬間、不思議と昨日ほど怖くなかった。

 何もない。

 婚約も。

 家も。

 自分を必要としてくれる場所も。

 けれど、それならこれから探せばいい。

 誰かに必要とされることを、自分の価値だと思うのはやめよう。

 カイラスに選ばれなかったからといって、自分が消えるわけではない。

 父に役に立たないと言われたからといって、本当に役に立たない人間になるわけでもない。

 そう考えたところで、門の外から車輪の音が聞こえてきた。

 一台の馬車が、朝靄の向こうから近づいてくる。

 漆黒の車体。

 扉には銀色の狼と三日月の紋章。

 セレス家のものではない。

 王都で見慣れた王家の紋章でもなかった。

 ミレイアは足を止めた。

 馬車は屋敷の正門前で静かに止まり、御者台から黒い制服を着た男が降りてくる。

「ミレイア・セレス様でいらっしゃいますか」

「はい」

「ノクシア王国国王、アルドリック・ノクス陛下より、あなた様へ正式な書状をお預かりしております」

 差し出された封筒には、昨日見たのと同じ銀狼の封蝋が押されていた。

 ミレイアは、自分の旅行鞄と手紙を交互に見た。

 家を失った、その朝。

 まるで待っていたかのようなタイミングで、狼王からの招待状が届いた。

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